河底0メートル

いわれてみれば、たしかにきこえる

料理にも物語性があるかも

二時間行列待ちが当たり前というラーメン屋に夕方行ったらガラガラで直ぐ入れた訳なんですが、席に座って壁に貼ってある雑誌の記事等々を見た後に運ばれてきたラーメンを食べたらまあ美味しいんですけど二時間は並ばないかもな、と思ったのです。

 

「二時間行列待ち」とか「店の歴史」なんて事も知らなかったので、もし壁の記事を見ずに食べていたら、「ラーメンを食べた」という、明日には忘れてそうな出来事として過ぎ去ったはずなのです。しかし、「行列待ち」というエピソードが加わってしまった事によって「そんなに待ってまでも食べたいラーメンは美味しいに違いない」という情報が加わったが為に、「美味しいけど、並んでまで食べるほどでもない」という負の評価になってしまいました。

 

これがもし本当に二時間待って食べたとしたら、おそらくですがもっと美味しく食べれたような気がします。自己肯定感といえばそれまでですが、二時間も待って食べたものが普通の味だったら、二時間のロスとなってしまうわけで、それを打ち消す為にも「店の歴史」等々、料理に対するエピソードをこれでもかと付け加える事で実際に感じた味覚以上の美味しさを味わうのかもしれません。

 

「南極から取り寄せた氷」や「熟練の海女さんが取ってきた鮑」等々、料理に何かしらエピソードを加えてしまうのは、料理の美味しさを高める一つの方法なのかもしれません。

逆に言えば、あまり美味しくないものでも、そのエピソードによってはごまかされる事が可能であるともいえます。そういえば鯨も普通に食べていた時はあまり美味しいとは思ってなかったような気がしますが、なかなか食べられなくなってからは思い出補正なのか何となく美味しい気がするのは、自分の舌がバカだからでしょうか?

 

藤原製麺 札幌円山動物園白クマ塩ラーメン 112.4g×10袋

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「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人の甘ったれ加減

黒子のバスケ」脅迫事件の被告人の意見陳述が全文公開されています。

黒子のバスケ」自体は見たこともなく、また脅迫事件についても詳しくは知らないのですが、陳述は興味深いというか、突っ込みどころが多くてもの申したい。

 

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。

年齢から来る人生のどん詰まり感に共感する部分もなくはないですが、全体的に流れる自虐的人生観が、逆に被告人の自己肯定感を露わにしているような気がします。

 

自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。

ここまで自分を客観視できるのに、自律的にならず他者への攻撃に転じてしまった理由は、やはり自己肯定感であるような気がします。それも「ダメな自分」というマイナスの自己肯定。

30代にして「人生オワタ」と感じるなら、他ならぬ自分の事なのですから自殺するなり自己改革に取り組むなり、とにかく自分で始末をつければよいと思うのですが、「自分が駄目だから、他の人も駄目にしてやろう」という意識が働くのは、「あいつが持っているおもちゃが欲しいけど、貰えないから壊してやろう」といった子供っぽい思考の持ち主のような感じを受けます。「頑張って働いて手に入れよう」という至極当然の思考に至らないのは、結局自ら泥だらけになった経験がないからだと思うのです。

 

自殺についてですが、自分は自己中心的な動機でも自殺したいのです。自分の連行に使用される捕縄を見るたびに首を吊りたくなります。この瞬間でも自殺させて頂けるのでしたら、大喜びで首を吊ります。動機も男として最もカッコ悪い種類の動機ですし、それが露見してしまったので、もう恥ずかしくて生きていたくないのです。それに自分は「負けました」と言って自分の人生の負けの確定を宣言したのです。つまり自分の人生は終わったのです。それなのにまだ生き永らえていることに我慢がならないのです。

率直な感想としては「グダグダいわずに死ねば良かったのに」と言いたい。そうじゃないなら、死ぬ気で自意識を変えてみるとか、とにかくチャレンジしてみればよかったのに、と感じます。「大喜びで首を吊ります」とか本気で言っている人はこんな所で意見陳述すること無く、さっさと首を吊って人生にサヨナラを告げているでしょう。

 

そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。

自分で自分を罰する事が出来ないからか司法からの厳罰を望んでいて、あまつさえ同じような人が増えるから司法は処罰を考えよ、と「上から目線」で物申しております。

「ボクは無敵の人の中でも優しい方だから他人を殺したりしなかったけど、他の無敵の人は大量殺戮とかするんじゃないですか?」と司法を脅しているようにも取れます。

 

動機として挙げているものを列挙すると、「子供時代のいじめ」「親の無関心」「人生のどん詰まり感」「成功者への嫉妬」と全く壮絶なものではなく、本人も自覚はあるようで、次のようにも陳述しています。

自分は思わせぶりなことを申し上げましたが、客観的には大したいじめを受けてませんし、両親の自分に対する振る舞いも躾の範囲に収まることで虐待ではありません。

結局、被告人は自分の殻を破れなかったのだと思います。自分で創りだした殻を後生大事にした結果、肥大化した殻に押しつぶされてしまった。

 外圧によって脱ぎ捨てられてみたら、こんなことも言っています。

他の被留置者と仲良く話をしたりもできました。自分が人とまともに長く会話をしたのは本当に久しぶりです。少なくとも過去10年にはありません。若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。自分の人間関係は逮捕前より充実しています。

なぜ、逮捕されるまでこんなことができなかったのだろうと考えるに、結局「甘ったれ」なんだと感じました。人から言われないと何にもできない「甘ったれ」。「無敵の人」なんて言ってますが、単に自己肯定に囚われすぎて他人への思いやりを忘れた「甘ったれ」です。赤ちゃんが無敵なのと同じ論理です。三十過ぎのオッサンが赤ちゃんと同じことをしても許してもらえないじゃないですか。

 

陳述について考えていたら、イソップ物語の「狐とブドウ」を思い出しました。

キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。

 被告人は「酸っぱいブドウ」だと思わなかったのでしょうか?

昔のホームページは「Japanese only」ばかりだった気が…

浦和サポーターが試合中に「Japanese only」という横断幕を掲げるという問題。

Twitter / tonji5: 今日の試合負けた以上にもっと残念な事があった…。
浦和という ...

ニュースを見ても、「差別的な内容」としか書かれておらず、そもそも「何故この横断幕を掲げたのか」という点について、マスメディアの中では詳しく書かれている記事になかなか見当たりませんでした。

 

検索した所、以下の様な記事が見つかりました。

【アカン】一部の浦和レッズサポーターが新加入の李忠成選手にブーイング 「JAPANESE ONLY」ダンマクも : はちま起稿

本当かどうかは判りませんが、李忠成選手に対する横断幕だったとすれば、「差別的」と断定される事は論を待ちません。

しかし、マスメディアではこの点を報道すること無く、「Japanese only」という文言が既に差別的であるという論調になっているように感じます。「White only」との類似性をもって「差別」としている事に少し違和感を感じます。

 

今から20年ほど前のインターネットは、IBMの「ホームページビルダー」等を使って作られた「ホームページ」がどんどん増えている時でした。そんなホームページには決まって「Sorry、Japanese only」という文言が掲げてあったように記憶しています。勿論、差別的な意図はなく、「申し訳ない、日本語だけのページです」という意味で付けてあったと思います。基本的に英語が母国語であった日本のインターネット黎明期では、「Japanese only」はむしろ親切心であったはずです。つまり、「このホームページには日本語でしか記事がありません」と示すことで、ネットサーフィン中に読めない日本語のページを漁って無駄な時間を過ごさないで済むわけです。

 

「Japanese only」という言葉だけを目の敵にして「ダメなものはダメ」と押し付ける態度は、いわゆる「言葉狩り」と同じようなものを感じます。例えば「障害者」を「障がい者」や「障碍者」と言い換える事に時間を費やすよりも、その時間で福祉を充実させる事の方が、結局みんなの為になるはずです。勿論、その言葉が指し示す相手側の立場に立って考える必要はあるし、出来るだけ多くの人が納得できる言葉である必要はありますが、本質的な問題の解決にはならないので、唯の言い換えでしか無い事も往々にしてあるでしょう。

 

「White only」が「奴隷解放運動」を前提とした差別であることを理解しないと意味が無いように、「Japanese only」が何故駄目なのかという前提をきちんと報道しないマスコミは「言葉狩り」と同じであると断じて良いと思うのです。根本を断ち切らない限り、また同じような問題が発生することでしょう。

とりあえず、今回の件が李忠成選手に関することであるかどうかが判るのに、マスコミに

期待するのは難しいでしょうか?

 

 

ホームページ・ビルダー18 通常版

ホームページ・ビルダー18 通常版

 

 

ラジオ復活の日

 最新号のブルータスがラジオ特集だったのです。

BRUTUS (ブルータス) 2014年 3/15号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2014年 3/15号 [雑誌]

 

 思えば、J-WAVEを聴き続けて幾年か、朝は必ずジョン・カビラのヒヤヒヤするインタビューで叩き起こされ、夜は奥田民生木村カエラのヒヤヒヤするDJぶりを聞きながら過ごしていたのですが、突然ジョン・カビラが旅に出るという話になり、代わりに別所哲也がナビゲーターになった時から聴かなくなってしまいました。

ちょうどその頃Wiiをやりたいがためにカッコつけて買わなかったテレビを買った為、もっぱらテレビを観る毎日となり、いつしかラジオを聴くこともなくなってしまいました。

 

しかし、ラジオ特集を読んで久しぶりにラジオを付けてみたら、テレビを観るよりも心地よい感じになります。たまにテレビを見ていて、その演出やくだらなさにイライラして電源を切ることがあったりするのですが、ラジオだとあんまりイライラしないという事に気づきました。

全然イライラしないかというと、実は昨日若手バンドがゲストで出た時に、初登場で興奮しているのか、割れんばかりの大声で挨拶していたのを聴いてちょっとイラッとしたのでした。

 

そうはいっても、テレビと比べるとイライラの頻度は激減したので、これからはラジオメインの毎日に変えていこうかと思う次第。流し見するテレビよりも、流し聞きするラジオの方がイラツカないのは、何故なんでしょうかね?

地名の本と人口集中

書店を覗くと、東京の地理の本のコーナーが出来ている事があり、結構興味があるので立ち読みしたりします。坂名の由来が何かの冗談みたいな理由だったりするので、結構おもしろいです。「帯坂」は「帯を引きずって逃げたから」なんて、そんな一瞬の出来事が由来になるのか、とか。

自分が住んでいる場所の変遷や地名の由来など、実生活にはあまり役に立たないのかもしれませんが、知ることで何となく地元愛的なものが湧いてくるのかもしれません。ただ電車で通り過ぎる街も、実は急な坂があると知って降りて散歩してみたくなる事があります。

 

しかし、地元でもなく電車でも通りすぎない街の地名の変遷に興味を持つのは、結構厳しいように思えます。観光地になるほどの風光明媚な場所であれば別ですが、単なる住宅地が広がる所の地名に興味を覚えるのは、実際に住んでいる人がほとんどでしょう。

 

そう考えると、書店でコーナーが組めるほど地名に関する本の点数が多いのは、大都市圏に限られるわけです。つまり人口の多さと地理本には相関関係があるのではないでしょうか。

 

地方では平成の大合併により、むしろ地名は減り広範囲が同じ地名となってしまった状態ですから、ますます地名の由来は希薄になったように思います。人口の集中が地名の歴史に優劣をつける一因になるわけですが、この傾向はこれから先も更に進んでいくと思われます。

 

スーパービジュアル版 江戸・東京の地理と地名

スーパービジュアル版 江戸・東京の地理と地名

 

 

究極のDQNネームは「名無し」か

名前を考える

ゲームのRPGで主人公の名前をつけるのにさえ非常に時間が掛かるのに、ましてやペットの名前なんて何日掛かっても決めきれないし、更に子供の名前ともなると決めきれなさすぎて血反吐を吐いてしまうのではないか、と妄想したりするのですが、世の中には「本気でその名前を付けたのか?」と訝しむような名前の子供がいるそうです。

 

例は挙げませんが、そもそも「読めない名前」をつけるという事は、子供の個性云々以前に、他人への思いやりが足りていないという事でもあるでしょう。音読みと訓読みで読み間違える程度ならまだしも、名前の漢字を見ても読みが完全に判らない名前をつけるのは、ある意味排他的で不条理さえ感じます。

完全に親の責任で子供は悪くないのですが、正しく呼ばれないという被害を受けるのは主に子供であり、この点がますます不条理感を高めてくれます。

 

ナンバーワンよりオンリーワンの強調

このような名前を「個性的だ」として擁護する気持ちも判らなくはないですが、個性的であろうとするがゆえに傍若無人になるのは、個性を発揮するどころか孤立してしまう事になりかねません。個性はあくまで社会の中、つまり人々のつながりの中で発揮されるべきものであり、他人への思いやりを欠いた個性には何の意味もありません。他人からの視点を無視するという事は無人島に一人で住んでいるのと同じであり、そこには個性という合言葉も虚しく響くだけです。

このような名前が増えた背景のひとつに、「オンリーワン」の強調があると思われます。同じ条件下でナンバーワンを目指す競争よりも、なるべくそれぞれの差を付けないで個性を発揮し「オンリーワン」であればよいという考え方によって、「個性」を発揮させようと「名前」という本来争うべきではない領域でいびつに花開いてしまったように感じます。

 

いっそ名前をなくしてみる

こうなると子供の名前というのは、むしろ親が自分の個性を発揮させたいが為に「読めない名前」をつけているとも考えられます。

だとすれば、日本の象徴であらせらせる天皇にあやかり、「名前を付けない」つまり「名無し」というのが一番個性的なのではないか、と気づきました。姓を授け、自らは姓を持たない天皇のように、わざわざ名前を付けなくても十分に個性的である子供に名前をつける必要はないのではないでしょうか?

届け出で名前の欄を空欄で提出するなんて役所で止められそうですが、もし空欄で通ったら、これこそ空前絶後のDQNネームのような気がします。猫なら「名前はまだない」という前例があるのですけどね。

 

 

吾輩は猫である (新潮文庫)

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暗さを楽しむ節電、あるいは消灯中のコンビニは開店という意識

節電するということ

お風呂の電灯を消し忘れてしまいもったいないと感じたのですが、なぜもったいないと思ったのかというと、人が居ないのに明かりがついているからなんですよね。

「明かりをつけることによってモノが見える」という働きを受ける相手が居ないという不均衡に対する嫌悪感とでも言い換えられるのかもしれませんが、そこまで言わなくても単に「電気代がもったいない」というケチ根性の方が強いといった方がしっくり来る気もしますが、ともかくも「節電」は原発問題や太陽光発電のように込み入った話にならず、しかも電気問題を解決できる一端でもあります。

 

「店が暗い=やっていない」という意識

一番判りやすい節電対象というと「照明」なので、大地震後に重要度の低い蛍光灯を外したり、昼休みに電気を消したり、LED電球に変えたりと色々対応されていると思うのですが、なんといっても一番の節電は「消す」ことです。使わなければ減らないわけですから。

ところで、消灯しているという事は昼休みの消灯のように「やっていない」という意識を持っているが故に、例えばコンビニが消灯していたら「閉まっている」という感覚に慣れてしまっています。「点灯=営業中、消灯=営業時間外」という意識です。

しかし、「電気がついている」という事と、「営業中」である事に相関関係は無いはずなのです。客がいる時に電気がついて、いない時には電気が消えていても、防犯上の理由等々の問題はあるとしても、原則的には客としては何も問題がありません。

尾籠な話ですが、たまにある自動点灯するトイレのように、人がいる時には点いて、いない時には消えるという方式と同じといえるでしょう。

 

暗さを求める

比較する対象としてはあまり良くないのかもしれませんが、コンビニが広まる以前の個人商店の店内は意外と暗かったような気がします。もちろん今ほど電球の性能が良くない事もあるでしょうけど、それで困ったことはあまり無い気もします。むしろ明るいデパートの記憶より、薄暗い駄菓子屋の店内の思い出の方が強いようにも感じます。

今暗い店内を作るのはスナックくらいなもので、居酒屋ですらひたすら明るいつくりのものがほとんどです。しかし、名店が必ずしも明るいわけではないように「明るさ」と「店のよさ」は比例するものではありません。「雰囲気」を出す為にあえて暗くしている店すらあるほどです。あちこちが夜でも明るい現代では、暗いくらいの方が逆に魅力となるのかもしれません。むしろ暗い場所を求めて逃げ込みたいのかも、と思うこともしばしば。

 

節電とは暗さを楽しむ事かも

ドン・キホーテ圧縮陳列というのも、一種の暗さのように感じます。今はどうか知りませんが、ちょっと前は商品を積み上げる事により影ができ、店内が陰影を付けた迷路のようになっていました。

必要な時に電気を使い、不要な時には電気を使わない、そういう意識を客側も持てば、たとえばコンビニの店内電気が消えていても「開店中」の看板が掛かっていれば開店なのです。そこまで行かなくとも例えば看板のネオンサインだけでも「開店中」と点灯していれば判断はできます。

店内に入っても必要以上の明かりは不要です。むしろ若干暗い方が趣が出るかもしれません。暗いと万引きが増えそうな気もしますが、では店が明るいと万引きされないというわけでもなく、死角があるような店の造りや万引きしにくい雰囲気といった事に力を入れるべきだとは思います。

ともかく、暗さを不便だと感じる気持ちよりも楽しむ余裕を持ち得れば、節電が進んでいくのではないでしょうか。原発を論じて諍うよりもずっと実際的だと思うのですが。

 

 

節電エコタイマーET55D

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