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河底0メートル

いわれてみれば、たしかにきこえる

部下に攻撃的な上司は、サッサと周りに絶望してほしいと思う次第

たまにいるんですが、部下に対してやたらとイチャモンをつける上司。

あれって何なんでしょうか。

 

先日、退職する役員の送別会があったのですが、参加者ほとんど全員が仕事での接点がなかった中、ご本人はいたく上機嫌でなぜか社員に対し「おまえは生意気だ」「あんたなんか辞めたほうがいい」等々言いたい放題。周りも苦笑いで合わせるものの、「立つ鳥跡を濁さず」という言葉ってドコの世界の話なのだろうか、と思わざるを得ない言動。挙句の果てに「花束はないのか」「普通、記念品くらい準備してるだろ」と言い出す始末。

 

当然のことながら、こちらもトバッチリを受けて「おまえは人の顔を見ても挨拶しない」とか「今度挨拶しなかったら飛び蹴りしてやる」とか、パワハラで訴えたら勝てるんじゃないかと思わざるを得ないお言葉。送別の言葉を言おうと口を開けば野次を飛ばしてくるわ、女の子に対しても言葉が聞きたいと突然話を振ってくるわとやりたい放題で、もはやサッサと終わることしか考えない最悪の飲み会。

 

なぜそんなに攻撃的なのかツラツラ考えてみるに、まずは絶望的にソリが合わない人なんだろうなというのはとりあえず置いておいて、他人を攻撃することで自らを守ろうとしているのではないかと。そもそも役員を送別している訳で、会社では必要とされなくなったから送別しているのが前提としてあるでしょう。本人が納得しているのかいないのかは定かではないですが、任期が更新されなかったという事実。

また、周りを貶めるという言動は、仕事を自分一人だけが行っているという勘違いをしたままなんじゃないか、とも思えるのです。仕事をするのは俺だけで、周りはただ言うとおりに動けばいいと考えているのではないか、と。当然、自分の言うことをきかないのは「生意気」であり、仕事で接点がない社員は「辞めた方がいい」と放言する根底には、そんな思考が透けて見えるような気がします。

 

むしろ、自分一人で行える仕事なんて会社全体から見えば極々一部であり、それは上になればなるほど部下の力を合わせなければならないと思ってしまうのですが、それはいつまで経っても出世しない一部下の妄想なんでしょうかね。

結局一人で仕事をして、一人で辞めるとしたら、じゃあ会社人生って何だったんだろうなあ、と。トットと自営でも始めればよかったんじゃないか、とも思ったり。まあ、それでも役員まで出世したのだから、うちの会社って声が大きい人が昇進しやすいという古い会社なんだとも思ったり。いや、何かムツカしい。

 

まあ、今回退職される役員に関しては、これまでの人生の中でたまに遭遇する「こちらは全然相手にしたくないのに、なぜかイチャモンをつけて絡んでくる人」なんだろうなあ、と思うしかないかと思う次第。

この際、一人で仕事をしていると思っている人は、是非他人を攻撃せずに周りに絶望しながら孤高を貫いていただきたいなあ、と。そっちのほうが無害だし、出世も早いと思うのですがどうでしょうか?

 

孤高の人〈上〉 (新潮文庫)

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理想的なファンという虚像

高度な集金システムを作り上げていたと思い込んでいたのは間違いで、実際にシステムを形どっていたのはファンだったという話かと。

 

握手会を中心とした商法がファンのある程度の規律によって成り立っていた事が今回暴露されてしまったようです。今までも同様の危険性があったにも関わらず、マスであるファンの善意を是としてしまった事がこのような状態に陥る要因の一つだったように思えます。

 

また、会って握手ができるという、カリスマ性をまとわないアイドルであるからこそ襲撃のターゲットとなった可能性も否めません。アイドルとファンの垣根が高ければ、襲撃するという発想そのものが生まれることが稀であるように感じます。勿論、偶像破壊の衝動に駆られる人がいないわけではないので完全に防げるとは限らないのですが。

 

理想的なファンという虚像に立脚した集金システムは、一線を超えてきた客により一瞬にして崩壊してしまうという、非常に脆いものであったという事でしょうか。

 

しかし、客に襲われるといえば、昔は浅沼稲次郎のような政治家だったのに、平成の世はアイドルなんですなあ。

 

浅沼稲次郎―人間機関車 (人物文庫)

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主体と客体が逆転し、耳を澄ましてLet it be

とある寺院でドンツクドンツク太鼓を叩いて読経を聞いた後、おもむろに聴いた法話は「耳を澄ませましょう」という事だった。

大意は、耳を澄ましていつも聞かない音に気づくことで心の平静を取り戻すこともあります、との事。確かに自分の聞きたいものにこだわりすぎているような今日このごろ。テレビにしてもネットにしても、見たいものや聞きたいものばかりで、「聴く」という行為を自分の為だけにつかっている気がして、反省することしきり。

 

法話を聴く前に遡る事1時間前、読んでいた本にはこう書かれていた。

ラテン語のsubjectumは「言表の基底にあってそれを支える自己」であり、つまりは縁の下の力持ちである。これに対してobjectumは「価値あるものとしてたてられているお向こうさん」の意である。そうであるならば、下位にあって支える主体が価値ある客体をどうこうするのは、僭越というものだろう。(種村季弘「澁澤さん家で午後五時にお茶を」p67)

主体にこだわるあまり客体をないがしろにしているという事は、取りも直さず「耳を澄ましていない」という事でもある。自らの価値を上げることばかり考えすぎて、周りの価値あるものを見逃しているのではないか、そう思っていた所に「耳を澄ませよ」というありがたいお話が重なり、これぞセレンディピティかと思った次第。

 

そんな事を考えていたら、これは実のところ「Let it be」なのではないかと思い当たった。言わずと知れたThe Beatlesの名曲で、言葉の意味はよく判らないけど、とにかくLet it beだけは耳に残るメロディ。訳せば「あるがままに」という事ではあるのだが、結局のところ「あるがままに」というよりも、明恵上人が曰う「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」の精神に近いような気がしている。主体と客体が共に調和するように自らを律する為には耳を澄ませて聴く事も大事なんだと思った次第。

 

 

 

「日本霊異記」のコンビニ雑誌広告具合

日本史で習ったかと思いますが、「日本霊異記」が滅法胡散臭くて面白いのです。 

日本霊異記 (平凡社ライブラリー)

日本霊異記 (平凡社ライブラリー)

 

日本現報善悪霊異記 - Wikipedia

 

「金と女が欲しい」と観音に祈っていたら、持参金付きの女と結婚できて、更に女が先に亡くなってしまった後、その妹と結婚できてメデタシメデタシ、という、今どき信じるほうがどうかしてるんじゃないかと思うような話がヘロっと書いてあったりします。

コンビニ雑誌の広告で、1万円札でバスタブをいっぱいにした中に女性二人と一緒に入る写真がありましたが、話としてはあんな感じです。あの広告を見て水晶なりお守りなりを「じゃあ買おう」となる人がどれくらいいるのか知りませんが、信じるのが水晶とかじゃなくて、仏法僧だったら良いのでしょうか?

とにかく三宝の融通無碍っぷりが半端無くて、僧を打ったりするとたちどころに死にますし、寺からお金を借りたまま死んだりすると動物に生まれ変わって酷使されます。ここまで来ると仏教というよりも疫病神で関わりを持ちたくなくなってきますが、逆に信じさえすれば地獄に落ちても戻ってこれますし、生き返った後卒寿まで生きたりもできます。

とんでもないレベルの万能ぶりですが、逆に言えばここまで現世利益を強調しなければならない程、仏教を教え広める必要があったのかと考えると、コンビニ雑誌広告といえども長い時間をかければ仏教レベルにまで育つ事もありえるという事でもあります。

日本史に登場する文献であってもそうなのですから、理詰めで考えれば押し並べて理解されると思ったら大間違いなんだなあ、とシミジミ感じたりもするわけです。

臨海部を死者の為の街に

臨海地区をさまよっているとマンションが多いのはもちろん、大規模な病院も増えているような気がします。生活に必要なスーパーや学校があるのは当然として、少しずつ「生老病死」の四苦を見据えた街になってきたとも捉えられます。

歴史のある街には必ず寺があり、そして墓地があります。死んだ後も棲み続けられるのが、本当の街だと思うのです。そういう意味では埋立地である臨海部は、病院止まりでまだまだ生者の為の街にしか過ぎません。

 

そう考えていた所、大地震の心配から逃れられない東京湾岸を死者の街とすることを思いつきました。簡単に言うと、青山霊園をそっくり臨海部に移動させて、湾岸の街を青山に持ってくるという、乱暴極まりないプランです。

「墓地の上に住むなんて」と思う方もおられるでしょうが、東日本大震災を目の当たりにした後では、墓地だろうがなんだろうが高台に住む方が安全だと思うのです。バチ当たりというのであれば、大手町にある将門の首塚の隣で仕事をしている方がよっぽど呪われているのではないでしょうか。

 

かつて明治神宮が造営され今では憩いの森になっているように、臨海部に死者を弔い先を見据えた墓地として街づくりを行うことで、第一に津波への心配が幾分減り、第二に街としての成熟度が上がって文字通り「揺りかごから墓場まで」住める場所となれる気がしています。

 

 

2020 東京・首都圏未来予想図 (別冊宝島 2116)

2020 東京・首都圏未来予想図 (別冊宝島 2116)

 

 

アフィリエイトは男らしくないのか

「男らしい」というと語弊があるかもしれませんが、間接的に儲けているという事が何となく卑しい感じに受け取られるのかもしれません。何の話かというと「アフィリエイト」の事です。

成功報酬型広告 - Wikipedia

 

記事に対して直接支払われるのであれば文句をつけられる事はあまり無いように思います。いわゆる「原稿料」という形は一般的に理解されやすい。

これが記事ではなく紹介したリンクや商品によって支払いが行われるとなると、とたんに嫌悪感を催す場合が少なくありません。書いたものではなく、紹介して売れたものから報酬が発生するという間接的な対価は得てして炎上しやすいように思えます。

まったく同じ記事であってもアフィリエイトの有る無しが、ある意味記事の示す結論すら変えてしまう事すらあるかもしれません。最後に商品へのリンクがあるが故に「この記事はこの商品を買ってもらわんが為に書かれたのか」と誤解されるという可能性を考えるに、アフィリエイトに対する嫌悪感は相当なものがあるような気がします。

 

とはいえ、逆の立場にたてば当然儲かったほうがいいに決まっているので、結論を変えない程度にはリンクを張りたいと思うのも人情。色々書いても原稿料が出るわけでもないので、むしろ張るのが当然の権利とも思えなくもない。

 

記事で直接稼ぐのが男らしいならば、アフィリエイトで間接的に稼ぐのは女々しいという、フェミニスト団体に怒られそうな表現を使いたくなるような今日このごろ。

そういえば、先月上がった消費税も「間接税」と言われてますが、なんだか嫌悪感が凄いですね。女々しいからかしら。そんなわけはない。

 

女々しくて

女々しくて

 

消費税の軽減税率は弁護士余り対策?

もうすぐ4月。消費税が8%にあがるというので、みんな買いまくっているようで、アスクルが明日来なくなったり、宅急便も時間通りに来なかったりと、前回消費税が上がった時にはネット通販なんてほとんど無かったでしょうし、これまで考えられなかったような業界まで影響が出ています。

 

とはいえ、消費税8%の次には10%が待ち構えるわけでして、早ければ来年10月にも導入されるというスピード感。「最初から10%にすればいいのに」と思うのですが、まあ決まってしまった事は仕方がないかと。

で、当然10%となると、税負担としては結構重いものになるわけで、今回8%に上がった場合、年収400〜500万の世帯で年間8万円の増税になるという試算が出ていました。8%で8万ですから10%になると結構な負担増です。

 

そこで、食料品などの生活必需品の消費税率を下げて、低所得者層の負担を軽減しようという案が去年の与党税制改正大綱で示されました。いわゆる消費税の軽減税率です。

ヨーロッパでは、EU加盟の条件として消費税にあたる付加価値税の導入が必須であり、それに伴い軽減税率も導入する事となっています。EUの付加価値税は15%以上とすると定められており日本よりも高い税率となっていますが、食料品等には軽減税率が適用される為、感覚的には物価は日本と変わらないとの事です。

 

生活必需品が安く買えるという事で一見良さそうな軽減税率ですが、実際の適用例を見ていくとそうとも言っていられない気がしてきます。

例えば、ドイツのファーストフード店では持ち帰りには軽減税率が適用されますが、店内で飲食する場合「贅沢な食事」という事で標準税率となります。まったく同じ商品でも持って帰るかその場で食べるかで税率が違うのです。

ちなみに「値段」ではなく「税率」が違うと書いたのは、多くの店がオペレーションを簡単にするために持ち帰りと店内飲食の値段を同じにしており、店が納税する際に標準税率と軽減税率で計算して支払う事となっています。当然、店としては持ち帰りにしてもらった方が支払う税金も減るので、購入する際に何も言わないと勝手に持ち帰りにされます。また、レジで店内飲食を持ち帰りだと打ち替える脱税行為もあとを絶たないようです。

 

更に厄介なのは、軽減税率の適用範囲です。例えば、マックのハッピーセットのようにおまけでおもちゃがついてくる場合、あまりにも豪華なおもちゃであれば、おもちゃが主であるとして標準税率を課される可能性があります。昔で言うとビッグワンガムあたりは適用範囲に入ってくるかもしれません。

とはいえ、じゃあおもちゃが豪華かどうかというのはどうやって判断するのか、という問題が出てきます。「豪華」というのは人によって見方が違う為、明確な線引きをするのが非常に難しいことであります。

マルセル・デュシャンの「泉」という作品なんて便器に名前を書いただけですが、名前を書く前は軽減税率だけども、名前を書いた後は芸術品だから標準税率になる、などという何だかコントみたいな事が起こりえるわけです。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Duchamp_Fountaine.jpg/250px-Duchamp_Fountaine.jpg

 

明確な基準がないとはいえ無制限に税率を軽減するわけにはいかないので、何かしら線引が必要であり、海外では租税専門の機関や裁判所があるのでそこで判断される事が多いのですが、そのような機関を持たない日本では当然裁判所で争う事となるでしょう。そうすると、当然弁護士が必要になるわけですが、幸か不幸か弁護士が増えすぎてあぶれている現状では願ったり叶ったりというわけです。

 

というわけで何の脈絡もなく「新聞に軽減税率を!」と書いているマスコミは、「弁護士余りを解消させようとしている」とも取れるし、何か裏があるんじゃないかと勘ぐったりしている今日このごろです。