河底0メートル

いわれてみれば、たしかにきこえる

いまさら出会い系サイトの話し

出会い系、facebookやLINEがある今、もはや時代遅れの遺物ともいえるメール主体の出会い系サイトですが、そんな今だからこそ本当に出会えるのではないか、と考える人がいてもおかしくないはず、そもそも女の子は機械系に弱いから最新のサイトよりも、こなれたメールの方がいいんじゃないの、という偏見もあり、登録してみました。

あ、ちなみに私はオトコですので、そのつもりで。女の人はまた違うテクニックがあると思いますので。

あと、直メールじゃなくて、古式ゆかしきポイント制のボッタクリサイトの話です。直メール可能の良いサイトがあるなら教えて欲しいったらありゃしない。

 

それはともかく、しばらく経って気づいた、出会い系メールのコツをお教えしましょう。

 

1.アカウントは複数登録すべし

  アカウント一つだけだと矢継ぎ早に送られてくるメールの真贋の見分けが付かない事が多いのですが、複数アカウントに同じメールが送られて来た場合、100%サクラだと簡単にわかります。同じ内容なのに名前だけ変えているなんてザラですが、複数じゃないと気付かないような巧妙なものもありますので。

 

2.「近所に住んでいる」といいながら、地名に疎い

  住所を登録するサイトの場合、近所住みアピールをしてくるメールが来ますが、これがちょっとおかしい場合もサクラだと思います。具体的には東京の「江東区」に住んでいるとして「江東まで行きます」というアピールがあるのですが、首都圏の人は判りやすいと思いますが、地元民なら区の名前じゃなくて駅名を使うことが多いです。江東区だったら亀戸とか東陽町とか。地元アピールしていて駅名じゃなくて地名を使ってたらサクラの可能性大です。ただし小学校名とか地元すぎるアピールもちょっと微妙な感じではあります。

 

3.ポイントが尽きる直前に注意

  メールのやり取りで待ち合わせ場所まで決まったのに、「出かける時に連絡お願いします」なんてメールが来て、しかもポイントが切れるギリギリの所で来た場合、これまたサクラの可能性大です。完全にポイント消費狙いなのがまるわかりです。

 

コツとか言いながら、3つしか思いつきませんでした…。

 

ここ二週間くらい騙された手口を公開します。まあ、騙されたといいながら無料ポイント内だけで済んだので、実質0円なんですけども。とはいえ、このいきり立った気持ちをどこにぶつけたらよいのか…。

 

まず、住所なんかを登録していたのですが「近くに住んでいます」というメールが来ました。しっかり駅名だし、「郵便局の近く」という若干微妙なアピールだったのですが、まあ良かろうと思い、メールを出してみました。ちなみにメール一通26ポイント。無料進呈ポイントは300ポイントで、メールを見るのも26ポイント掛かるので、実質行って来いで5回の送受信しか出来ません。

次のメールで週末に会える事になり進展の早さに戸惑いながら、趣味の話なんかしていたらあっという間にあと一通でポイント切れというところになり、とりあえず翌日の待ち合わせ時間だけ決めました。

翌日になって、「今日は大丈夫ですか」「どんな格好ですか」と怒涛のメールが来て、内容を確認していたらとうとうポイント切れ。その後も「待ち合わせ場所に来ました」とか「携帯が鳴らないので」とか次々とメールが来るのですが、ポイント切れの為タイトルしか見れず、そもそも待ち合わせ場所が判らないし携帯の電話番号も聞いていないのですが、ポイントを消費すれば見れる本文に書いてあるのかも、と思うとヤキモキしてしまいましたが、結局その日はそのまま会わずに終わり。

その後も「連絡のないまま会えないなんて事は」「ずっと待っています」と来て、翌日になっても「念願の逢瀬を」「諦めずに連絡していたらいつか振り向いてくれると信じて」とか魅惑的なタイトルが送られてくるのですが、何しろポイントを買わないと見れないので、仕方がなく眺めていました。

 

で、気づいたのですが「別アカウントで連絡してみればまた無料でいいんじゃね」と気づいて、同じ名前でメールアドレスだけ変えて登録したのですが運営会社が気づいたらしく速攻でアカウントを削除されてしまいました。

流石に同じ名前じゃバレると思い別名で登録して、検索機能を使って再度同じ人に連絡を取ってみたら、週末に会えるとの事。今回は慎重に事を運び、待ち合わせ時間と場所まで決めてメールを送ることに成功しました。あとは時間になったら会うだけです。

 

と、思っていたのですが、待ち合わせ時間の30分前に「これから出ますが、そちらも出る前に連絡をください。これまで現地で連絡が取れなくなって会えないことがあったので」というメールが来て、閲覧したらポイントが切れてしまいました。もはや出かけるメールをする事ができません。というか、ポイント切れるのを見越して出かけるメールを頼んできたんじゃ…という疑心暗鬼。というか、この時点で「サクラじゃね?」とほぼ革新。場所と時間は完璧なので、出かけるメールは不要なはずなのです。

そして、次に来たメールが「携帯が鳴らないので」。いやいや携帯の電話番号聞いてないし。前のアカウントと同じタイトルだし。という事でサクラという事が完全に判ってしまいました。その後にも続々と同じタイトルで流れてきますが、待ち合わせ場所と時間まで決めてるし、駅の出口であんまり人通りのない所を指定しているから会えないなんて事はありませんですよ。

万が一ということもあるので待ち合わせ場所に一応確認に行きましたが、当然誰もいませんでした…。

 

まあ、無料分のドキドキ感は楽しめたし、「ひょっとしたら会えるかも」という夢もみれたので良しとします。ホントに会っていたら一体どうなっていたことだろう、とは思いますが、むしろ会えなかった事でちょっと一安心している気持ちもあったり。

やっぱり出会い系サイトって駄目ですね。こんなところでポイントを買い漁るより、普通に酒飲みに行った方がナンボかマシだと革新した次第。

 

 

40代からの出会い系サイト攻略法

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はあちゅうって女イケダハヤトかもしれないと思った

今朝の毎日新聞西原理恵子のマンガの下に載っている「はあちゅう♡エッセー 東京ミーハーダイアリー」が毎度毎度内容が癇に障る事ばかりで、むしろ楽しみにしているのですが、今朝のはグッと来ました。

最近、立て続けに「戦略的なSNSの使い方」というテーマの取材を受けました。ブロク歴10年目の私にとって、ネットで発信することは、息をすることと同じくらい自然なことです 。なので「どうやって息してますか?」と聞かれても困るのですが、ネットが不得意な母に教えるつもりで、取材を乗り切っています。

どうです?グッと来ませんか?「息をすることと同じくらい自然な」ブログって何なんでしょうか。「毎日日記を書いています」というのと同じレベルだと思うのですが、皆様に見て頂けるネット配信になると息をするのと同じになるらしいです。そんなバカな。

 

そういえば同じようなことをイケダハヤト師も言っていたなあと、思い出したくもないのに思い出したのです。ボク達の一挙手一投足が気になって仕方がない人たちがいるから毎日書いてあげるんだ的な、よく判らない絶対的な自己肯定に裏打ちされた自信みなぎるそのチラ裏は、突っ込みどころ満載で見る者達の格好の慰み者になって仕方がないのです。ご本人自ら「サンドバッグ」なんて宣言されていましたし。

 

一昔前の作家は作品は出版されても、日記が出版されるのを拒否する人が多かった気がします。遺言で日記の焼却を頼んだにも関わらず、遺族によって出版されてしまったりするのですが、とにかく本人の意志として日記は人の目にさらさないのが当然で、読んでもらいたいのは心血を注いで書いた作品でしょう。

ところが今や日記然としたブログが、もはや作品ともいえるようになってしまいました。「息をすることと同じくらい」書くのは一昔前の作家も同じで、むしろ書きまくった、その上澄みを作品として発表するのが当然だと思っているのですが、今はそうでもないんですかね。

個人的には村上春樹が好きではなく、そのキッカケは「ノルウェイの森」が「蛍」という作品を元に膨らまして書かれているのですが、「それって自己模倣じゃないの」と思ったからなんですよね。ここでいう日記が「蛍」で、作品が「ノルウェイの森」にあたると考えると、「蛍」という日記のようなものを発表しているのって、何だかカッコ悪いなあと血気盛んな時は思ったものですが、今考えると自己模倣と捉えるよりも、むしろ時代を先んじていたのかもしれません。

 

それはともかく、「息をすることと同じ」ブログなんて、よくよく練られた文章でもないでしょうし、ヒョロヒョロした根拠の無い話を精一杯膨らまして書いたようなものは、足を払えば消えてしまう妖怪ぬりかべのような感じがしてなりません。

 

ちなみにこのブログも「息をすることと同じ」というよりは「二、三日溜まった便秘のようなもの」です。息するよりももっとビロウで格下ですし、ワタクシ作家先生でもないので、ツッコミは無用です。

 

恋愛炎上主義。 (一般書)

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部下に攻撃的な上司は、サッサと周りに絶望してほしいと思う次第

たまにいるんですが、部下に対してやたらとイチャモンをつける上司。

あれって何なんでしょうか。

 

先日、退職する役員の送別会があったのですが、参加者ほとんど全員が仕事での接点がなかった中、ご本人はいたく上機嫌でなぜか社員に対し「おまえは生意気だ」「あんたなんか辞めたほうがいい」等々言いたい放題。周りも苦笑いで合わせるものの、「立つ鳥跡を濁さず」という言葉ってドコの世界の話なのだろうか、と思わざるを得ない言動。挙句の果てに「花束はないのか」「普通、記念品くらい準備してるだろ」と言い出す始末。

 

当然のことながら、こちらもトバッチリを受けて「おまえは人の顔を見ても挨拶しない」とか「今度挨拶しなかったら飛び蹴りしてやる」とか、パワハラで訴えたら勝てるんじゃないかと思わざるを得ないお言葉。送別の言葉を言おうと口を開けば野次を飛ばしてくるわ、女の子に対しても言葉が聞きたいと突然話を振ってくるわとやりたい放題で、もはやサッサと終わることしか考えない最悪の飲み会。

 

なぜそんなに攻撃的なのかツラツラ考えてみるに、まずは絶望的にソリが合わない人なんだろうなというのはとりあえず置いておいて、他人を攻撃することで自らを守ろうとしているのではないかと。そもそも役員を送別している訳で、会社では必要とされなくなったから送別しているのが前提としてあるでしょう。本人が納得しているのかいないのかは定かではないですが、任期が更新されなかったという事実。

また、周りを貶めるという言動は、仕事を自分一人だけが行っているという勘違いをしたままなんじゃないか、とも思えるのです。仕事をするのは俺だけで、周りはただ言うとおりに動けばいいと考えているのではないか、と。当然、自分の言うことをきかないのは「生意気」であり、仕事で接点がない社員は「辞めた方がいい」と放言する根底には、そんな思考が透けて見えるような気がします。

 

むしろ、自分一人で行える仕事なんて会社全体から見えば極々一部であり、それは上になればなるほど部下の力を合わせなければならないと思ってしまうのですが、それはいつまで経っても出世しない一部下の妄想なんでしょうかね。

結局一人で仕事をして、一人で辞めるとしたら、じゃあ会社人生って何だったんだろうなあ、と。トットと自営でも始めればよかったんじゃないか、とも思ったり。まあ、それでも役員まで出世したのだから、うちの会社って声が大きい人が昇進しやすいという古い会社なんだとも思ったり。いや、何かムツカしい。

 

まあ、今回退職される役員に関しては、これまでの人生の中でたまに遭遇する「こちらは全然相手にしたくないのに、なぜかイチャモンをつけて絡んでくる人」なんだろうなあ、と思うしかないかと思う次第。

この際、一人で仕事をしていると思っている人は、是非他人を攻撃せずに周りに絶望しながら孤高を貫いていただきたいなあ、と。そっちのほうが無害だし、出世も早いと思うのですがどうでしょうか?

 

孤高の人〈上〉 (新潮文庫)

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理想的なファンという虚像

高度な集金システムを作り上げていたと思い込んでいたのは間違いで、実際にシステムを形どっていたのはファンだったという話かと。

 

握手会を中心とした商法がファンのある程度の規律によって成り立っていた事が今回暴露されてしまったようです。今までも同様の危険性があったにも関わらず、マスであるファンの善意を是としてしまった事がこのような状態に陥る要因の一つだったように思えます。

 

また、会って握手ができるという、カリスマ性をまとわないアイドルであるからこそ襲撃のターゲットとなった可能性も否めません。アイドルとファンの垣根が高ければ、襲撃するという発想そのものが生まれることが稀であるように感じます。勿論、偶像破壊の衝動に駆られる人がいないわけではないので完全に防げるとは限らないのですが。

 

理想的なファンという虚像に立脚した集金システムは、一線を超えてきた客により一瞬にして崩壊してしまうという、非常に脆いものであったという事でしょうか。

 

しかし、客に襲われるといえば、昔は浅沼稲次郎のような政治家だったのに、平成の世はアイドルなんですなあ。

 

浅沼稲次郎―人間機関車 (人物文庫)

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主体と客体が逆転し、耳を澄ましてLet it be

とある寺院でドンツクドンツク太鼓を叩いて読経を聞いた後、おもむろに聴いた法話は「耳を澄ませましょう」という事だった。

大意は、耳を澄ましていつも聞かない音に気づくことで心の平静を取り戻すこともあります、との事。確かに自分の聞きたいものにこだわりすぎているような今日このごろ。テレビにしてもネットにしても、見たいものや聞きたいものばかりで、「聴く」という行為を自分の為だけにつかっている気がして、反省することしきり。

 

法話を聴く前に遡る事1時間前、読んでいた本にはこう書かれていた。

ラテン語のsubjectumは「言表の基底にあってそれを支える自己」であり、つまりは縁の下の力持ちである。これに対してobjectumは「価値あるものとしてたてられているお向こうさん」の意である。そうであるならば、下位にあって支える主体が価値ある客体をどうこうするのは、僭越というものだろう。(種村季弘「澁澤さん家で午後五時にお茶を」p67)

主体にこだわるあまり客体をないがしろにしているという事は、取りも直さず「耳を澄ましていない」という事でもある。自らの価値を上げることばかり考えすぎて、周りの価値あるものを見逃しているのではないか、そう思っていた所に「耳を澄ませよ」というありがたいお話が重なり、これぞセレンディピティかと思った次第。

 

そんな事を考えていたら、これは実のところ「Let it be」なのではないかと思い当たった。言わずと知れたThe Beatlesの名曲で、言葉の意味はよく判らないけど、とにかくLet it beだけは耳に残るメロディ。訳せば「あるがままに」という事ではあるのだが、結局のところ「あるがままに」というよりも、明恵上人が曰う「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」の精神に近いような気がしている。主体と客体が共に調和するように自らを律する為には耳を澄ませて聴く事も大事なんだと思った次第。

 

 

 

「日本霊異記」のコンビニ雑誌広告具合

日本史で習ったかと思いますが、「日本霊異記」が滅法胡散臭くて面白いのです。 

日本霊異記 (平凡社ライブラリー)

日本霊異記 (平凡社ライブラリー)

 

日本現報善悪霊異記 - Wikipedia

 

「金と女が欲しい」と観音に祈っていたら、持参金付きの女と結婚できて、更に女が先に亡くなってしまった後、その妹と結婚できてメデタシメデタシ、という、今どき信じるほうがどうかしてるんじゃないかと思うような話がヘロっと書いてあったりします。

コンビニ雑誌の広告で、1万円札でバスタブをいっぱいにした中に女性二人と一緒に入る写真がありましたが、話としてはあんな感じです。あの広告を見て水晶なりお守りなりを「じゃあ買おう」となる人がどれくらいいるのか知りませんが、信じるのが水晶とかじゃなくて、仏法僧だったら良いのでしょうか?

とにかく三宝の融通無碍っぷりが半端無くて、僧を打ったりするとたちどころに死にますし、寺からお金を借りたまま死んだりすると動物に生まれ変わって酷使されます。ここまで来ると仏教というよりも疫病神で関わりを持ちたくなくなってきますが、逆に信じさえすれば地獄に落ちても戻ってこれますし、生き返った後卒寿まで生きたりもできます。

とんでもないレベルの万能ぶりですが、逆に言えばここまで現世利益を強調しなければならない程、仏教を教え広める必要があったのかと考えると、コンビニ雑誌広告といえども長い時間をかければ仏教レベルにまで育つ事もありえるという事でもあります。

日本史に登場する文献であってもそうなのですから、理詰めで考えれば押し並べて理解されると思ったら大間違いなんだなあ、とシミジミ感じたりもするわけです。

臨海部を死者の為の街に

臨海地区をさまよっているとマンションが多いのはもちろん、大規模な病院も増えているような気がします。生活に必要なスーパーや学校があるのは当然として、少しずつ「生老病死」の四苦を見据えた街になってきたとも捉えられます。

歴史のある街には必ず寺があり、そして墓地があります。死んだ後も棲み続けられるのが、本当の街だと思うのです。そういう意味では埋立地である臨海部は、病院止まりでまだまだ生者の為の街にしか過ぎません。

 

そう考えていた所、大地震の心配から逃れられない東京湾岸を死者の街とすることを思いつきました。簡単に言うと、青山霊園をそっくり臨海部に移動させて、湾岸の街を青山に持ってくるという、乱暴極まりないプランです。

「墓地の上に住むなんて」と思う方もおられるでしょうが、東日本大震災を目の当たりにした後では、墓地だろうがなんだろうが高台に住む方が安全だと思うのです。バチ当たりというのであれば、大手町にある将門の首塚の隣で仕事をしている方がよっぽど呪われているのではないでしょうか。

 

かつて明治神宮が造営され今では憩いの森になっているように、臨海部に死者を弔い先を見据えた墓地として街づくりを行うことで、第一に津波への心配が幾分減り、第二に街としての成熟度が上がって文字通り「揺りかごから墓場まで」住める場所となれる気がしています。

 

 

2020 東京・首都圏未来予想図 (別冊宝島 2116)

2020 東京・首都圏未来予想図 (別冊宝島 2116)