河底0メートル

いわれてみれば、たしかにきこえる

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人の甘ったれ加減

黒子のバスケ」脅迫事件の被告人の意見陳述が全文公開されています。

黒子のバスケ」自体は見たこともなく、また脅迫事件についても詳しくは知らないのですが、陳述は興味深いというか、突っ込みどころが多くてもの申したい。

 

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。

年齢から来る人生のどん詰まり感に共感する部分もなくはないですが、全体的に流れる自虐的人生観が、逆に被告人の自己肯定感を露わにしているような気がします。

 

自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。

ここまで自分を客観視できるのに、自律的にならず他者への攻撃に転じてしまった理由は、やはり自己肯定感であるような気がします。それも「ダメな自分」というマイナスの自己肯定。

30代にして「人生オワタ」と感じるなら、他ならぬ自分の事なのですから自殺するなり自己改革に取り組むなり、とにかく自分で始末をつければよいと思うのですが、「自分が駄目だから、他の人も駄目にしてやろう」という意識が働くのは、「あいつが持っているおもちゃが欲しいけど、貰えないから壊してやろう」といった子供っぽい思考の持ち主のような感じを受けます。「頑張って働いて手に入れよう」という至極当然の思考に至らないのは、結局自ら泥だらけになった経験がないからだと思うのです。

 

自殺についてですが、自分は自己中心的な動機でも自殺したいのです。自分の連行に使用される捕縄を見るたびに首を吊りたくなります。この瞬間でも自殺させて頂けるのでしたら、大喜びで首を吊ります。動機も男として最もカッコ悪い種類の動機ですし、それが露見してしまったので、もう恥ずかしくて生きていたくないのです。それに自分は「負けました」と言って自分の人生の負けの確定を宣言したのです。つまり自分の人生は終わったのです。それなのにまだ生き永らえていることに我慢がならないのです。

率直な感想としては「グダグダいわずに死ねば良かったのに」と言いたい。そうじゃないなら、死ぬ気で自意識を変えてみるとか、とにかくチャレンジしてみればよかったのに、と感じます。「大喜びで首を吊ります」とか本気で言っている人はこんな所で意見陳述すること無く、さっさと首を吊って人生にサヨナラを告げているでしょう。

 

そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。

自分で自分を罰する事が出来ないからか司法からの厳罰を望んでいて、あまつさえ同じような人が増えるから司法は処罰を考えよ、と「上から目線」で物申しております。

「ボクは無敵の人の中でも優しい方だから他人を殺したりしなかったけど、他の無敵の人は大量殺戮とかするんじゃないですか?」と司法を脅しているようにも取れます。

 

動機として挙げているものを列挙すると、「子供時代のいじめ」「親の無関心」「人生のどん詰まり感」「成功者への嫉妬」と全く壮絶なものではなく、本人も自覚はあるようで、次のようにも陳述しています。

自分は思わせぶりなことを申し上げましたが、客観的には大したいじめを受けてませんし、両親の自分に対する振る舞いも躾の範囲に収まることで虐待ではありません。

結局、被告人は自分の殻を破れなかったのだと思います。自分で創りだした殻を後生大事にした結果、肥大化した殻に押しつぶされてしまった。

 外圧によって脱ぎ捨てられてみたら、こんなことも言っています。

他の被留置者と仲良く話をしたりもできました。自分が人とまともに長く会話をしたのは本当に久しぶりです。少なくとも過去10年にはありません。若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。自分の人間関係は逮捕前より充実しています。

なぜ、逮捕されるまでこんなことができなかったのだろうと考えるに、結局「甘ったれ」なんだと感じました。人から言われないと何にもできない「甘ったれ」。「無敵の人」なんて言ってますが、単に自己肯定に囚われすぎて他人への思いやりを忘れた「甘ったれ」です。赤ちゃんが無敵なのと同じ論理です。三十過ぎのオッサンが赤ちゃんと同じことをしても許してもらえないじゃないですか。

 

陳述について考えていたら、イソップ物語の「狐とブドウ」を思い出しました。

キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。

 被告人は「酸っぱいブドウ」だと思わなかったのでしょうか?