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河底0メートル

いわれてみれば、たしかにきこえる

SNSは現代の告解か


告白の場がないということはしんどいことで、曽野綾子も自分がカトリックになったのは告解ができるからだといっているが、告白の場の有無は自白・自首に関する日欧の差を分ける一つの要因として考えてみる値打ちがあるかもしれない。p132

 

ミステリーの社会学―近代的「気晴らし」の条件 (中公新書)

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罪を告白するという行為が日本で根付いていないというのを読んで、ちょっと思い当たる事がありました。

 

 教会に行って神父に告解をするという行為が、日本の文化として根付いていないのはあると思います。「こないだ教会で告白してきた」という話を耳にすることも、実際にやったこともありませんし、周りを見渡してみてもキリスト教徒自体が昔より減っているような感じを受けます。

 

必ずしも罪を告白しなければならないという法はありませんが、告白することによって自分の中で整理されたり、あるいは聞き手からのアドバイスを貰ったりすることで、少なくとも一人で悩むよりも良い結果になる場合が多いので、西洋では告解が未だに機能していると思われます。罪というと重いですが、例えば人間関係の悩みにしても話すことで解決の糸口が見つかったり、問題に対する視点を変える事によって悩みが軽減するという経験がある方も多いと思います。

 

神父に対する告解という文化を持たない日本人は悩みを抱え込んだままなのでしょうか?むしろ現代においては悩みを世界中に発信しているとも言えるかもしれません。Twitterfacebookに代表されるようなSNSによって。

特にTwitterでのつぶやきが多いように感じます。日本人は形而上学的な思考は苦手なので感覚的な情報発信が多く、そうなると長い文章よりは勢いのある短い文章の方が性に合っているのかもしれません。

「つぶやき」を「告解」として捉えると、いわゆる「バカッター」という蔑称があるように、罪の告白ゆえに炎上しやすい性質を示しているように思われます。「バカッター」という言葉と「悩み」はちょっと相容れない気もしますが、「王様の耳はロバの耳」のようなものだと考えれば両立するのではないでしょうか。つまり「告解」とは「皆に言いたくて堪らないが言えないという悩み」という事でしょうか。

 

告白している人は、神父にのみ罪を打ち明けていると思い込んでいるのですが、実際には世界中に発信されている事に気づいていない。SNSという神父は非常におしゃべりで、告白者が口止めしないと際限なく広まり続ける事を気に留める必要があります。

逆にセキュリティに気をつければ、これほど告解に適したメディアは無いといえます。教会に行くこともなく、いつでもどこでも悩みをつぶやける。つぶやくことで悩みが整理され、精神的に負担が軽くなる。

 

とはいえ、悩みを読まされる方は結構堪らない時もあるのですけどね。ブロックされない程度に告解を励行していただきたいものです。

 

告解 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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