河底0メートル

いわれてみれば、たしかにきこえる

病院の待ち時間

今、まさに病院の診察待ちの最中である。なぜこんなに待たなくていけないのか。

正月明けでいつもよりも患者が多いような気もする。そもそも他の医師が当番する時に比べて、院長が診察する時間は信頼がおけるからなのか、待合する人は多めである。

診察は5分かからない時が多い。経過観察中であり、薬が切れたタイミングで来院するだけなので、特に悪くなっていなければ何もしなくてもよい。しかし、薬を貰う為には診察を受けなければならない。ただただ待って、医師の顔を見て一言二言話し、また会計まで待って処方箋を貰う。選択の余地はない。

待合室には入り切れないので、廊下に出してある丸椅子に座って時が過ぎるのをただ待つのだ。待っている間はスマホを触ったり本を読んだりして過ごせるものの、その場を離れられない。離れると診察の順番がただ後回しにされてその分待ち時間が長くなる。自分の名前が呼ばれるのを聞き逃さないように耳をそばだてて読む本は頭に入ってこない。

 

今、名前が呼ばれたが、診察ではなく月初めの保険証の確認であった。検査の為の採血と薬が切れかけているので出す旨が伝えられたが、いっそ保険証確認しながら採血してくれればよいのに、と思う。また待つのみ。

隣に座る初老の男性は、スマホも本も見ず、開いた脚の間に視線を落として、ただただ純粋に診察を待っている。反対側の妙齢の女性は腰を叩きつつ文庫本を読んで待っている。観察していると「待つ」という行為にも色々ある事に気がついてくる。診察室まで入るとテレビが置かれており、見るともなく見る老人もいる。診察が終わり電話で迎えを頼む老人、夫婦で待っている人は何事か話しながら待っている。しかし話題が尽きたのか、手を揉みつつ待っている。病院なので皆元気があるわけでもなく、しばらくすると押し並べて皆無口になる。迎えを頼んだ老人は会計を待つ間に折り返しの電話が来た。会計も迎えも待っている。二重の待ちだ。迎えに来る人も老人が帰るのを待っているし、お互いに待っているわけだ。病院に行くだけで何人もの人が何重にも待つ事になる。待合室は「待つ」が渋滞している。

また、患者がやって来た。この人も最後尾に並んで待つのだ。前の人の待ちが終わらない限り、この人の待ちは終わらない。

待って待って待ちまくる。これこそが待ちの極意だ。

迎えを待っていた老人に迎えが来た。迎えは老婦人であった。この人も待っていたのだ。まさに今、目の前で待ちが解消された。こうして人々の待ちが次々に解消されていく。しかし私の待ちはまだ終わらない。

待合室から続く廊下を去る人以外、皆待ち続けている同士である。隣で本を読んでいた女性は先程診察室へ呼ばれて待ちが解消された。しかし今また戻ってきて小説の続きを読みはじめた。待ちが終わったと思ったら、また待ち。数珠つなぎの待ちである。待ち、待ち、そして待ち。ヒトは待ち続けるイキモノである。常に何かを待つのだ。ひょっとすると待っている時間は自由だと思い込んでいる時間なのかもしれない。ヒトは待っている間に生まれ、待ちの中に生きて、待ち続けて死ぬ。人生とは死ぬまでの待ち時間なのだろうか。