河底0メートル

いわれてみれば、たしかにきこえる

主体と客体が逆転し、耳を澄ましてLet it be

とある寺院でドンツクドンツク太鼓を叩いて読経を聞いた後、おもむろに聴いた法話は「耳を澄ませましょう」という事だった。

大意は、耳を澄ましていつも聞かない音に気づくことで心の平静を取り戻すこともあります、との事。確かに自分の聞きたいものにこだわりすぎているような今日このごろ。テレビにしてもネットにしても、見たいものや聞きたいものばかりで、「聴く」という行為を自分の為だけにつかっている気がして、反省することしきり。

 

法話を聴く前に遡る事1時間前、読んでいた本にはこう書かれていた。

ラテン語のsubjectumは「言表の基底にあってそれを支える自己」であり、つまりは縁の下の力持ちである。これに対してobjectumは「価値あるものとしてたてられているお向こうさん」の意である。そうであるならば、下位にあって支える主体が価値ある客体をどうこうするのは、僭越というものだろう。(種村季弘「澁澤さん家で午後五時にお茶を」p67)

主体にこだわるあまり客体をないがしろにしているという事は、取りも直さず「耳を澄ましていない」という事でもある。自らの価値を上げることばかり考えすぎて、周りの価値あるものを見逃しているのではないか、そう思っていた所に「耳を澄ませよ」というありがたいお話が重なり、これぞセレンディピティかと思った次第。

 

そんな事を考えていたら、これは実のところ「Let it be」なのではないかと思い当たった。言わずと知れたThe Beatlesの名曲で、言葉の意味はよく判らないけど、とにかくLet it beだけは耳に残るメロディ。訳せば「あるがままに」という事ではあるのだが、結局のところ「あるがままに」というよりも、明恵上人が曰う「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」の精神に近いような気がしている。主体と客体が共に調和するように自らを律する為には耳を澄ませて聴く事も大事なんだと思った次第。