史上最低の映画「プラン9・フロム・アウタースペース」と「ゲゲゲの鬼太郎」
史上最低の映画
「新橋文化劇場」という名画座が新橋駅近くの高架下にあります。今回、「史上最低の映画」で名高い「プラン9・フロム・アウタースペース」がかかるという事で、観に行ってきました。ちなみに同時上映はゾンビつながりで「ゾンビ」です。
結果からいうと確かにつまらないのですが、寝るまで至らなかったのでそこそこです。家でぼんやりテレビを見ているよりは有意義な時間だった、と思いたい。
殴り合いで決着
ネットを探せば悪い評判がゴロゴロでてくるのですが、個人的に一番つぼにはまったのは、最終的に宇宙人相手に殴り合いで勝ってしまうというSF感ゼロの決着方法でした。UFOでやってきて死人を蘇らせたりしてたのに、最後は拳で決着というヤンキーイズム。
そこで思い出したのが、先日行われた「バオーンの夕べ」という水木しげる漫画全集関連イベントで京極夏彦氏が言っていた言葉でした。
攻撃が物理的
「ゲゲゲの鬼太郎」はご存知のように鬼太郎が様々な妖怪と戦う話ですが、ちゃんちゃんこや髪の毛バリ等々の技はあるにせよ、その全ては結局相手に対する直接攻撃であり、京極氏は「攻撃が全て物理的だ」と喝破されていました。幽霊族なんだし妖怪なんだからもっと楽に勝てそうなもんですが、相手の攻撃に苦しみながら結局最後は相手の体の中に入って殴ったりして勝ったりします。
何というか、良く言えば真っ直ぐに戦っている、悪く言うと戦い方に工夫が無いと言えるかと。まあ、アニメ版と違って、漫画の鬼太郎は人間のエゴが主題で戦いはあっさりしてる時も多いんですけど。
人間のエゴの結果は物理的な攻撃で終わるのか
史上最低の映画と妖怪漫画の傑作を並べるのは心苦しいところですが、「攻撃が物理的」の一点で結びついてしまいました。「プラン9」も人間が宇宙を滅ぼしてしまいそうなので死者を生き返らせるというまわりくどい方法で攻撃されるわけですから、鬼太郎と同じような理由で人類は攻撃を受けるのです。
その結果はというと、拳であっさり決着をつけるという単純極まりない解決法。問題がこと人類側にある場合問題提起が主なので、解決法は特に工夫はなくとりあえず拳で撃退できればそれでいいのかもしれません。人間が存在する限り、どうせまたやってくるのですから。
図書館の本は古本なのか
図書館の本
図書館で本を借りると、たまに書き込みがしてあったりしてガッカリする事があります。どういうつもりで書き込みをするのかさっぱり理解できなかったのですが、うちにある古本を見ていてちょっと思いついた事がありました。
古いものは価値が低下している
基本的にモノの値段は新品が一番高く、一度でも人の手に渡ると価値が激減します。本屋で買った本をそのまま古本屋に売っても半分の値段でも買ってくれないでしょう。
図書館の本も一度人の手に渡ったものと考えると、価値としては下がっています。貸出が増えれば増えるほど価値が下がっていると考える事も可能です。貸出が多いということはそれだけ人気があるという事で内容の価値が高いとも言えますが、外装の劣化が進むなど、見た目の価値は確実に下がります。
100円ショップで買ったものと百貨店で買った高いものの、どちらを大切につかうかといえば、百貨店で買った方を大事に使いがちなのが人情です。同じように価値が低いものと高いもののどちらを大切に扱うかというと高いものになるでしょう。
無料であること
ましてや、図書館の本はタダで借りられます。厳密にいうと税金なのでまったくのタダではないのですが、無料で借りられます。「無料」という観点からみると、ぞんざいに扱ってもよいと考える人もいないとは限りません。
もちろん図書館の本は公共物であり、無料だから適当に扱って良いとはならないのですが、モノの価値だけで判断した場合、低いから扱いが適当になると考える事も可能です。そんな風に考える人が、書き込みをしたりページを破ったりする事ができるような気がします。
古本と図書館の本の違い
図書館の本はあくまで図書館のものであり、借りた人のものではありません。逆に古本は自分の所有物でありどの様に使おうが所有者の自由です。そして図書館の本を借りるのは無料であり、古本を買うのは安いものがあるとはいえタダではありません。
人手に渡った回数からいって古本よりも図書館の本の方が見た目の価値も低くなる。掛けた金額に注目すれば、タダである図書館の本の価値は低く古本の価値は高い。所有物であるかどうかに目をつぶれば、総じて古本より図書館の本の方が価値が低くなってしまうのです。
モノの価値
図書館の本に書き込みをする人は、モノの価値に重きを置くタイプだと思われます。逆にいえば価値を金額でしか判断できない。
その内容であるとか、公共物かどうかなど、金額以外の価値に目をつぶってしまう事。そんな風にならないように、気をつけていきたいものです。
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人は死ぬ、会社は死なない
法人税のセミナー中、貸倒引当金を説明していた講師がポツリと言った。
「人は死にますが、会社は死ぬことはありません」
個人が持っている資産は一代かぎりで、死亡すると相続税というものが掛かってくるが、会社が持っている資産は存続し続ける限り持ち続けるという事。「継続企業の前提」を説明する言葉として発された。
しかし、この言葉を聞いた瞬間に連想したのは、いわゆる「ブラック企業」だった。
人は一代限りで死に、会社はその屍の上で生き続ける。
死なない会社は人を喰らいつづける事で、継続していく。
ブラック企業にとって「継続企業の前提」とは、「人を喰らいつづける事」に他ならない。人が犠牲になることで継続できる。継続し続けることで人は喰われ続け、会社は資産を溜め込み続ける。
そうして生き延びる「会社」とは一体何なのだろうか。
例えば、起業家にとってこの言葉は希望の言葉ともなる。自分が亡くなったとしても自分が作った会社がある限り、創業者としての名が消えることはない。「継続企業の前提」とは「自らの名声が継続する事」に他ならない。継続する事で自らの名声は語り継がれる。語り継がれる間、会社は名誉を保ち続ける。
「人は死ぬ、会社は死なない」
自らの立場によって受ける印象が変わる言葉だと思う。
消費税を取る神社は願い事が必ず叶う、かもしれない
新年の初穂料には消費税がかからない
新年に参拝される方も多いと思いますが、その時納めた初穂料には消費税はかかりません。個人だと領収証を貰う人は稀だと思いますが、貰ってみても消費税は記載されていません。
何か買ったりサービスを受けたりすると必ず消費税がかかるものだと思い込んでいましたがそうでもないようです。
消費税がかかる場合とは
国内における消費税の課税対象は以下の3つです。
(1) 事業者が事業として行う取引
(2) 対価を得て行う取引
(3) 資産の譲渡等
初穂料はどれにも当たらず寄付金の扱いになります。つまり事業でもなく、対価も得ず、資産を渡すわけでもないという事です。
本当に対価はないのか?
しかし、実感として神社に行って寄付してきたと思っている人はあまりいないように思います。そうではなく、お願い事を成就してもらう為にお金を投じたと考えているのではないでしょうか。5円を投じるよりも1万円を投じた方がより願いが叶うと考えている人は多いと思います。つまり実際にモノがやりとりされる訳ではないのですが、願いを叶えてもらう為の対価として初穂料を納めていると言えるのではないでしょうか。
願いは叶わないもの
一般的な寄付金の場合もそうですが、それによって何か貰ったりサービスを受けたりする訳でもないからこそ消費税がかからない(不課税)という事になっています。何か対価がある場合は当然消費税がかかってきますし、それは寄付金とはなりません。
ということは、神社に納める初穂料は何か貰ったりサービスを受けたりしない事が前提にあると言う事になります。逆に言うと神社にお金を納めても願い事が叶うことはないと税務署は判定しているのです。つまり、税務上、神社でお願い事をする為に納めたお金は願いとは関係ないと言えます。
逆に言えば、消費税を取る神社があるならば、必ずお参りするべきです。具体的な対価があると認められているわけですから間違いない。そうはいっても取っている所が現実にあるとすると、単純に消費税を勘違いしている可能性大ですが。
セミナーは「タモリ倶楽部」的になればいい
眠くなるセミナー
雪が降りしきる都内某所でセミナーを受けてきました。プロジェクターを見ながら講師が説明していくのを200人超の受講者が見るというありふれた光景のセミナーなのですが、開始早々寝始める人もいるというこれまた見慣れた風景の中、セミナーの意味について考えてしまいました。
講師は真面目に説明しているのですが淡々と話すだけで強弱がなく、セミナー内容に興味が無いと速攻で寝落ちしてしまいます。プロジェクターを使っているので薄暗いというのもありますが、とにかく眠くて仕方のないセミナーでした。序盤は一瞬意識が飛びそうになりましたが、中盤から何とか持ち直して寝ることはありませんでしたが。
セミナーの種類
思うにセミナーには二種類あるような気がします。
- 参加型
- 講義型
1,については受講者が参加する形式のセミナーです。講師が受講者を指名して答えさせるというのもこれに入るでしょう。この形式の場合、受講者はいつ当てられるか判らないという緊張感もあり、眠くなりにくいように思います。
しかし、この形式が有効なのは受講者が少ない場合だけで、今回のように200人超が集まるようなセミナーではほぼ不可能だと思われます。
ということで、大人数でのセミナーでは必然的に2.となるわけですが、講師がただ話すだけでは受講者は寝てしまう可能性大です。
面白くすれば寝ない
当然セミナーですから、講師が説明して受講者が理解する事が大前提です。ですから寝てしまう講義はセミナーの趣旨に反するでしょう。
受講者が寝ないようにするにはどうすればよいか。先ほどの1.参加型のように受講者が緊張感も持って聴くような講義を行えばよいのではないでしょうか。
目を引くような身振り手振りや五感を刺激するような表現を駆使して講義を行ってもらえれば、例えばただただ説明するだけの一時間より、エンターテイメント性に優れた二時間の方が時間を短く感じる上に理解も進むような気がします。
セミナーこそテレビ的でいいのでは
そこでテレビです。今色々と言われているテレビ番組ですが、ついダラダラと見続けてしまう内容や興味を引こうとするテクニックなど、人を引きつける手法はまだまだ有効だと思われます。特にセミナーのように退屈になりがちな内容も、バラエティー的に講義すれば飲み込みも早いと思うのです。
理想のセミナーとしては「タモリ倶楽部」だと思います。普段興味のないニッチな趣味が主題の時でもいつの間にか興味を持ってしまう構成こそ、セミナーが取り入れるべきテクニックではないでしょうか?
そこまではいかないとしても、せっかく時間を作って受講しているのだから、講師がもうちょっと演劇的になって人を惹きつけるような工夫で受講者の理解が少しでも進めば、お互いに良くなるのに、と感じました。
肩こりにならない方法
慢性的な肩こり
こりますか?肩。私はこります。肩こりというやつです。
一日中机に座りっぱなしで、肘をつきながらキーボードを打っていると、夕方あたりに肩のあたりに鋭い痛みが走ったりします。なるべく肩を動かすようにしてはいますが、まったくもって痛みに追いつかない。
週末にジョギングなどして血行をよくしたりしないと、本当につらくなります。
肩こりはいつからか
そもそも肩こりになったのは10年くらいまえからなのですが、実はその前からも「肩こり」ではありました。肩が重いな、とか何となく違和感がある、と感じていたのですが、ある日突然「これが肩こりか!」と看破してしまったのです。つまり、それまで長い間肩こりだったのですが、それを「肩こり」と認識せず、「肩が重い」と判断しながら生活していたのです。この症状に「肩こり」と命名してから、それ以来ずっと肩こりとなりました。
それは本当に肩こりか?
肩こりではなかった人がある日突然肩こりになる。そんなわけはありません。これは肩こりだ、と認識した時に、人は肩こりになるのです。ということは、肩こりを「肩こり」と認識しなければ、それは肩こりではないのです。嘘みたいですが、そうなんです。
例えば「草食系男子」なんて言われなくても、昔から引っ込み思案な男子はいたのですが、レッテルを貼ることで何となく理解したように感じていないでしょうか?「奥ゆかしさ」や「思慮深さ」も十把一絡げに「草食系男子」として認識してしまうと、それぞれの良さは消えてしまいます。
詭弁でしょうか?いいえ、だれでも。
「風邪」があらゆる症状を指すように、「肩こり」だって千差万別で、実は「肩こり」が肩こりではない可能性もあるでしょう。血液型占いでひたすらA型を見ていたが実はAB型だった、なんて話もあるので、ある程度の客観性を持った結果から判断しないと、それは単なる思い込みにしか過ぎない可能性もあります。あなたは本当に肩こりなのでしょうか?単に肩に力が入りすぎているだけではないでしょうか?
「肩こりかな?」とおもった時に「これは本当に肩こりだろうか?」と疑ってみてください。疑うだけでも若干症状が軽くなる気がすると思いますよ。詭弁だとしても害があるわけでもなく、プラセボ効果だと思えば問題ないわけです。
とはいえ、「運動選手は肩こりにならない」とも言いますから、適度な運動が一番なのは間違いないわけですが。
ストーカーを生まない為に歌謡曲
突然思い出す歌謡曲
風呂に入っていると、突然「別れても好きな人」を歌い出しそうになりました。何となく覚えているのですが、よくよく考えると子供が歌うような歌詞ではありません。「わかれてもー、すきなひとー」なんて、年取った今なら意味がわかりますが、歌詞を覚えた当時は意味なんかわからずに歌っていたはずです。
ロス・インディオス&シルヴィア - 別れても好きな人 - YouTube
歌謡曲は大人の恋愛
ところが今は「別れても好きな人」なんて、意味がわかるどころか思い当たる節がありすぎるくらいで、むしろ感情を込めて歌いあげる気マンマンになります。子供の時には無縁のものと思えたものが、この歳になってその歌詞に思いを馳せることができるようになりました。「恋の奴隷」や「3年目の浮気」なんかもうっすら歌えますが、改めて歌詞を見ると、よくテレビで流してたな、と思うほど。
どの歌詞にも感じることは「大人の恋愛」です。「別れても好きな人」はカジュアルな恋愛ではなく感情のこもった、しかしそれに執着しない大人の恋愛。「3年目の浮気」はドロドロになりそうな浮気の話を軽々と歌うという大人っぷり。
歌謡曲は心の消防訓練
しかし、実際に大人になるとこんな感情や言動を抱くことが出てきます。そんな状況になった時、これらの歌詞の意味が記憶の底から蘇ってくるのでした。
彼女と別れた時「別れても好きな人」を知っていたからこそ、好きだけど別れると言う事を「わかれてもー、すきなひとー」のメロディで自分を客観視できた事もあると思うのです。もしこれが「あいたくて、あいたくて、ふるえるー」だったら自意識に囚われて会いに行ってしまうかもしれません。
歌詞がわからなくても知っていたからこそ、いざそんな状況になった時に思い出して自制できる事もあると思うのです。意味が無いと思いつつ覚えているといざという時に役に立つという意味では、消防訓練なんかに通じるかもしれません。
ストーカーにならない為に
ストーカーになるのは、自分を客観視できないという事が一因だと思います。自分の感情だけに重きを置いてしまい、相手の気持ちや周りの思いに気付く事無く暴走してしまう。
いまのJ−POPが恋愛至上主義的である為に、恋愛が終わることが自分の終わりであるかのように考えてしまうような気がしてなりません。
「featuring」とか「loves」とかじゃなく、対等な立場の「デュエット」で「大人の恋愛」を歌うような大人になる為に、「歌謡曲」を覚えてみてはどうでしょうか?
とかいいながら、自分が別れを乗り越えたのは、BeachBoysの「God only knows」からなんですけど。渋谷系の生き残りだからー。