河底0メートル

いわれてみれば、たしかにきこえる

アフィリエイトは男らしくないのか

「男らしい」というと語弊があるかもしれませんが、間接的に儲けているという事が何となく卑しい感じに受け取られるのかもしれません。何の話かというと「アフィリエイト」の事です。

成功報酬型広告 - Wikipedia

 

記事に対して直接支払われるのであれば文句をつけられる事はあまり無いように思います。いわゆる「原稿料」という形は一般的に理解されやすい。

これが記事ではなく紹介したリンクや商品によって支払いが行われるとなると、とたんに嫌悪感を催す場合が少なくありません。書いたものではなく、紹介して売れたものから報酬が発生するという間接的な対価は得てして炎上しやすいように思えます。

まったく同じ記事であってもアフィリエイトの有る無しが、ある意味記事の示す結論すら変えてしまう事すらあるかもしれません。最後に商品へのリンクがあるが故に「この記事はこの商品を買ってもらわんが為に書かれたのか」と誤解されるという可能性を考えるに、アフィリエイトに対する嫌悪感は相当なものがあるような気がします。

 

とはいえ、逆の立場にたてば当然儲かったほうがいいに決まっているので、結論を変えない程度にはリンクを張りたいと思うのも人情。色々書いても原稿料が出るわけでもないので、むしろ張るのが当然の権利とも思えなくもない。

 

記事で直接稼ぐのが男らしいならば、アフィリエイトで間接的に稼ぐのは女々しいという、フェミニスト団体に怒られそうな表現を使いたくなるような今日このごろ。

そういえば、先月上がった消費税も「間接税」と言われてますが、なんだか嫌悪感が凄いですね。女々しいからかしら。そんなわけはない。

 

女々しくて

女々しくて

 

消費税の軽減税率は弁護士余り対策?

もうすぐ4月。消費税が8%にあがるというので、みんな買いまくっているようで、アスクルが明日来なくなったり、宅急便も時間通りに来なかったりと、前回消費税が上がった時にはネット通販なんてほとんど無かったでしょうし、これまで考えられなかったような業界まで影響が出ています。

 

とはいえ、消費税8%の次には10%が待ち構えるわけでして、早ければ来年10月にも導入されるというスピード感。「最初から10%にすればいいのに」と思うのですが、まあ決まってしまった事は仕方がないかと。

で、当然10%となると、税負担としては結構重いものになるわけで、今回8%に上がった場合、年収400〜500万の世帯で年間8万円の増税になるという試算が出ていました。8%で8万ですから10%になると結構な負担増です。

 

そこで、食料品などの生活必需品の消費税率を下げて、低所得者層の負担を軽減しようという案が去年の与党税制改正大綱で示されました。いわゆる消費税の軽減税率です。

ヨーロッパでは、EU加盟の条件として消費税にあたる付加価値税の導入が必須であり、それに伴い軽減税率も導入する事となっています。EUの付加価値税は15%以上とすると定められており日本よりも高い税率となっていますが、食料品等には軽減税率が適用される為、感覚的には物価は日本と変わらないとの事です。

 

生活必需品が安く買えるという事で一見良さそうな軽減税率ですが、実際の適用例を見ていくとそうとも言っていられない気がしてきます。

例えば、ドイツのファーストフード店では持ち帰りには軽減税率が適用されますが、店内で飲食する場合「贅沢な食事」という事で標準税率となります。まったく同じ商品でも持って帰るかその場で食べるかで税率が違うのです。

ちなみに「値段」ではなく「税率」が違うと書いたのは、多くの店がオペレーションを簡単にするために持ち帰りと店内飲食の値段を同じにしており、店が納税する際に標準税率と軽減税率で計算して支払う事となっています。当然、店としては持ち帰りにしてもらった方が支払う税金も減るので、購入する際に何も言わないと勝手に持ち帰りにされます。また、レジで店内飲食を持ち帰りだと打ち替える脱税行為もあとを絶たないようです。

 

更に厄介なのは、軽減税率の適用範囲です。例えば、マックのハッピーセットのようにおまけでおもちゃがついてくる場合、あまりにも豪華なおもちゃであれば、おもちゃが主であるとして標準税率を課される可能性があります。昔で言うとビッグワンガムあたりは適用範囲に入ってくるかもしれません。

とはいえ、じゃあおもちゃが豪華かどうかというのはどうやって判断するのか、という問題が出てきます。「豪華」というのは人によって見方が違う為、明確な線引きをするのが非常に難しいことであります。

マルセル・デュシャンの「泉」という作品なんて便器に名前を書いただけですが、名前を書く前は軽減税率だけども、名前を書いた後は芸術品だから標準税率になる、などという何だかコントみたいな事が起こりえるわけです。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Duchamp_Fountaine.jpg/250px-Duchamp_Fountaine.jpg

 

明確な基準がないとはいえ無制限に税率を軽減するわけにはいかないので、何かしら線引が必要であり、海外では租税専門の機関や裁判所があるのでそこで判断される事が多いのですが、そのような機関を持たない日本では当然裁判所で争う事となるでしょう。そうすると、当然弁護士が必要になるわけですが、幸か不幸か弁護士が増えすぎてあぶれている現状では願ったり叶ったりというわけです。

 

というわけで何の脈絡もなく「新聞に軽減税率を!」と書いているマスコミは、「弁護士余りを解消させようとしている」とも取れるし、何か裏があるんじゃないかと勘ぐったりしている今日このごろです。

 

 

料理にも物語性があるかも

二時間行列待ちが当たり前というラーメン屋に夕方行ったらガラガラで直ぐ入れた訳なんですが、席に座って壁に貼ってある雑誌の記事等々を見た後に運ばれてきたラーメンを食べたらまあ美味しいんですけど二時間は並ばないかもな、と思ったのです。

 

「二時間行列待ち」とか「店の歴史」なんて事も知らなかったので、もし壁の記事を見ずに食べていたら、「ラーメンを食べた」という、明日には忘れてそうな出来事として過ぎ去ったはずなのです。しかし、「行列待ち」というエピソードが加わってしまった事によって「そんなに待ってまでも食べたいラーメンは美味しいに違いない」という情報が加わったが為に、「美味しいけど、並んでまで食べるほどでもない」という負の評価になってしまいました。

 

これがもし本当に二時間待って食べたとしたら、おそらくですがもっと美味しく食べれたような気がします。自己肯定感といえばそれまでですが、二時間も待って食べたものが普通の味だったら、二時間のロスとなってしまうわけで、それを打ち消す為にも「店の歴史」等々、料理に対するエピソードをこれでもかと付け加える事で実際に感じた味覚以上の美味しさを味わうのかもしれません。

 

「南極から取り寄せた氷」や「熟練の海女さんが取ってきた鮑」等々、料理に何かしらエピソードを加えてしまうのは、料理の美味しさを高める一つの方法なのかもしれません。

逆に言えば、あまり美味しくないものでも、そのエピソードによってはごまかされる事が可能であるともいえます。そういえば鯨も普通に食べていた時はあまり美味しいとは思ってなかったような気がしますが、なかなか食べられなくなってからは思い出補正なのか何となく美味しい気がするのは、自分の舌がバカだからでしょうか?

 

藤原製麺 札幌円山動物園白クマ塩ラーメン 112.4g×10袋

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「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人の甘ったれ加減

黒子のバスケ」脅迫事件の被告人の意見陳述が全文公開されています。

黒子のバスケ」自体は見たこともなく、また脅迫事件についても詳しくは知らないのですが、陳述は興味深いというか、突っ込みどころが多くてもの申したい。

 

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。

年齢から来る人生のどん詰まり感に共感する部分もなくはないですが、全体的に流れる自虐的人生観が、逆に被告人の自己肯定感を露わにしているような気がします。

 

自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。

ここまで自分を客観視できるのに、自律的にならず他者への攻撃に転じてしまった理由は、やはり自己肯定感であるような気がします。それも「ダメな自分」というマイナスの自己肯定。

30代にして「人生オワタ」と感じるなら、他ならぬ自分の事なのですから自殺するなり自己改革に取り組むなり、とにかく自分で始末をつければよいと思うのですが、「自分が駄目だから、他の人も駄目にしてやろう」という意識が働くのは、「あいつが持っているおもちゃが欲しいけど、貰えないから壊してやろう」といった子供っぽい思考の持ち主のような感じを受けます。「頑張って働いて手に入れよう」という至極当然の思考に至らないのは、結局自ら泥だらけになった経験がないからだと思うのです。

 

自殺についてですが、自分は自己中心的な動機でも自殺したいのです。自分の連行に使用される捕縄を見るたびに首を吊りたくなります。この瞬間でも自殺させて頂けるのでしたら、大喜びで首を吊ります。動機も男として最もカッコ悪い種類の動機ですし、それが露見してしまったので、もう恥ずかしくて生きていたくないのです。それに自分は「負けました」と言って自分の人生の負けの確定を宣言したのです。つまり自分の人生は終わったのです。それなのにまだ生き永らえていることに我慢がならないのです。

率直な感想としては「グダグダいわずに死ねば良かったのに」と言いたい。そうじゃないなら、死ぬ気で自意識を変えてみるとか、とにかくチャレンジしてみればよかったのに、と感じます。「大喜びで首を吊ります」とか本気で言っている人はこんな所で意見陳述すること無く、さっさと首を吊って人生にサヨナラを告げているでしょう。

 

そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。

自分で自分を罰する事が出来ないからか司法からの厳罰を望んでいて、あまつさえ同じような人が増えるから司法は処罰を考えよ、と「上から目線」で物申しております。

「ボクは無敵の人の中でも優しい方だから他人を殺したりしなかったけど、他の無敵の人は大量殺戮とかするんじゃないですか?」と司法を脅しているようにも取れます。

 

動機として挙げているものを列挙すると、「子供時代のいじめ」「親の無関心」「人生のどん詰まり感」「成功者への嫉妬」と全く壮絶なものではなく、本人も自覚はあるようで、次のようにも陳述しています。

自分は思わせぶりなことを申し上げましたが、客観的には大したいじめを受けてませんし、両親の自分に対する振る舞いも躾の範囲に収まることで虐待ではありません。

結局、被告人は自分の殻を破れなかったのだと思います。自分で創りだした殻を後生大事にした結果、肥大化した殻に押しつぶされてしまった。

 外圧によって脱ぎ捨てられてみたら、こんなことも言っています。

他の被留置者と仲良く話をしたりもできました。自分が人とまともに長く会話をしたのは本当に久しぶりです。少なくとも過去10年にはありません。若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。自分の人間関係は逮捕前より充実しています。

なぜ、逮捕されるまでこんなことができなかったのだろうと考えるに、結局「甘ったれ」なんだと感じました。人から言われないと何にもできない「甘ったれ」。「無敵の人」なんて言ってますが、単に自己肯定に囚われすぎて他人への思いやりを忘れた「甘ったれ」です。赤ちゃんが無敵なのと同じ論理です。三十過ぎのオッサンが赤ちゃんと同じことをしても許してもらえないじゃないですか。

 

陳述について考えていたら、イソップ物語の「狐とブドウ」を思い出しました。

キツネが、たわわに実ったおいしそうなぶどうを見つける。食べようとして跳び上がるが、ぶどうはみな高い所にあり、届かない。何度跳んでも届かず、キツネは怒りと悔しさで、「どうせこんなぶどうは、すっぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか。」と捨て台詞を残して去る。

 被告人は「酸っぱいブドウ」だと思わなかったのでしょうか?

昔のホームページは「Japanese only」ばかりだった気が…

浦和サポーターが試合中に「Japanese only」という横断幕を掲げるという問題。

Twitter / tonji5: 今日の試合負けた以上にもっと残念な事があった…。
浦和という ...

ニュースを見ても、「差別的な内容」としか書かれておらず、そもそも「何故この横断幕を掲げたのか」という点について、マスメディアの中では詳しく書かれている記事になかなか見当たりませんでした。

 

検索した所、以下の様な記事が見つかりました。

【アカン】一部の浦和レッズサポーターが新加入の李忠成選手にブーイング 「JAPANESE ONLY」ダンマクも : はちま起稿

本当かどうかは判りませんが、李忠成選手に対する横断幕だったとすれば、「差別的」と断定される事は論を待ちません。

しかし、マスメディアではこの点を報道すること無く、「Japanese only」という文言が既に差別的であるという論調になっているように感じます。「White only」との類似性をもって「差別」としている事に少し違和感を感じます。

 

今から20年ほど前のインターネットは、IBMの「ホームページビルダー」等を使って作られた「ホームページ」がどんどん増えている時でした。そんなホームページには決まって「Sorry、Japanese only」という文言が掲げてあったように記憶しています。勿論、差別的な意図はなく、「申し訳ない、日本語だけのページです」という意味で付けてあったと思います。基本的に英語が母国語であった日本のインターネット黎明期では、「Japanese only」はむしろ親切心であったはずです。つまり、「このホームページには日本語でしか記事がありません」と示すことで、ネットサーフィン中に読めない日本語のページを漁って無駄な時間を過ごさないで済むわけです。

 

「Japanese only」という言葉だけを目の敵にして「ダメなものはダメ」と押し付ける態度は、いわゆる「言葉狩り」と同じようなものを感じます。例えば「障害者」を「障がい者」や「障碍者」と言い換える事に時間を費やすよりも、その時間で福祉を充実させる事の方が、結局みんなの為になるはずです。勿論、その言葉が指し示す相手側の立場に立って考える必要はあるし、出来るだけ多くの人が納得できる言葉である必要はありますが、本質的な問題の解決にはならないので、唯の言い換えでしか無い事も往々にしてあるでしょう。

 

「White only」が「奴隷解放運動」を前提とした差別であることを理解しないと意味が無いように、「Japanese only」が何故駄目なのかという前提をきちんと報道しないマスコミは「言葉狩り」と同じであると断じて良いと思うのです。根本を断ち切らない限り、また同じような問題が発生することでしょう。

とりあえず、今回の件が李忠成選手に関することであるかどうかが判るのに、マスコミに

期待するのは難しいでしょうか?

 

 

ホームページ・ビルダー18 通常版

ホームページ・ビルダー18 通常版

 

 

ラジオ復活の日

 最新号のブルータスがラジオ特集だったのです。

BRUTUS (ブルータス) 2014年 3/15号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2014年 3/15号 [雑誌]

 

 思えば、J-WAVEを聴き続けて幾年か、朝は必ずジョン・カビラのヒヤヒヤするインタビューで叩き起こされ、夜は奥田民生木村カエラのヒヤヒヤするDJぶりを聞きながら過ごしていたのですが、突然ジョン・カビラが旅に出るという話になり、代わりに別所哲也がナビゲーターになった時から聴かなくなってしまいました。

ちょうどその頃Wiiをやりたいがためにカッコつけて買わなかったテレビを買った為、もっぱらテレビを観る毎日となり、いつしかラジオを聴くこともなくなってしまいました。

 

しかし、ラジオ特集を読んで久しぶりにラジオを付けてみたら、テレビを観るよりも心地よい感じになります。たまにテレビを見ていて、その演出やくだらなさにイライラして電源を切ることがあったりするのですが、ラジオだとあんまりイライラしないという事に気づきました。

全然イライラしないかというと、実は昨日若手バンドがゲストで出た時に、初登場で興奮しているのか、割れんばかりの大声で挨拶していたのを聴いてちょっとイラッとしたのでした。

 

そうはいっても、テレビと比べるとイライラの頻度は激減したので、これからはラジオメインの毎日に変えていこうかと思う次第。流し見するテレビよりも、流し聞きするラジオの方がイラツカないのは、何故なんでしょうかね?

地名の本と人口集中

書店を覗くと、東京の地理の本のコーナーが出来ている事があり、結構興味があるので立ち読みしたりします。坂名の由来が何かの冗談みたいな理由だったりするので、結構おもしろいです。「帯坂」は「帯を引きずって逃げたから」なんて、そんな一瞬の出来事が由来になるのか、とか。

自分が住んでいる場所の変遷や地名の由来など、実生活にはあまり役に立たないのかもしれませんが、知ることで何となく地元愛的なものが湧いてくるのかもしれません。ただ電車で通り過ぎる街も、実は急な坂があると知って降りて散歩してみたくなる事があります。

 

しかし、地元でもなく電車でも通りすぎない街の地名の変遷に興味を持つのは、結構厳しいように思えます。観光地になるほどの風光明媚な場所であれば別ですが、単なる住宅地が広がる所の地名に興味を覚えるのは、実際に住んでいる人がほとんどでしょう。

 

そう考えると、書店でコーナーが組めるほど地名に関する本の点数が多いのは、大都市圏に限られるわけです。つまり人口の多さと地理本には相関関係があるのではないでしょうか。

 

地方では平成の大合併により、むしろ地名は減り広範囲が同じ地名となってしまった状態ですから、ますます地名の由来は希薄になったように思います。人口の集中が地名の歴史に優劣をつける一因になるわけですが、この傾向はこれから先も更に進んでいくと思われます。

 

スーパービジュアル版 江戸・東京の地理と地名

スーパービジュアル版 江戸・東京の地理と地名